住めばブラジル
日本からブラジルに移住され、ブラジルの社会・環境問題、移民の記録などを録り続けていらっしゃる映像作家の岡村淳氏の「住めばブラジル」。様々な視点からコラムを書いてくださいました。
ブラジルの土に生きて 95歳の現役女性陶芸家
 今年4月、私は訪日を目前に控えてあわただしい日々を送っていました。
 そんななか、ブラジルの奥地に暮らすアミーガ(ガールフレンド)の健康が優れないとの知らせです。
 ミナス・ジェライス州の彼女のところまで、片道600キロ以上。自動車の運転はちょっとしんどい。夜行バスで発って、翌日ふたたび夜行バスで帰るという強行軍の日程を割り込ませました。

 その女性とは、出会ってから9年。
 彼女の名前は、石井敏子さん、明治生まれ。
 いまや私の友人で明治生まれの人は、敏子さんだけになってしまいました。倍も歳が離れていても「友人:アミーゴ(男性形)」と呼ぶことが許されるのが、この国の人間関係の素敵なところです。

石井敏子さん87歳の誕生日に。二つ年上の夫・延兼さんと。
 ブラジルに移住して70年以上経っても、敏子さんは古き日本の美徳を守り続けています。事前に来意を告げると、こちらに気を使い、あるいは病床の身を見られるのを潔しとせずに謝絶されるかもしれません。私はアポなしで敏子さんの娘婿が経営する農場に乗り込むことにしました。
 鉄鉱石の塊の山脈を越えて、なつかしい緑の大地へ。まるで映画の世界です。それもそのはず、私はこの農場に4年余りに渡って通いつめて「ブラジルの土に生きて」というビデオドキュメンタリーを西暦2000年に完成させていたのです。

 驚きました。床についていると思っていた敏子さんは、アトリエで絵筆を取っていたのです。
「今日は、調子がいいから」

石井敏子陶芸個展のポスター
 敏子さんは、サンパウロの街で亡き夫と共に長年暮らしていました。子供たちが全員独立して、娘婿の購入したこの農場に移り住んでから、歳にして70歳を過ぎてから以前からの夢だった陶芸を始めました。
 今やミナス・ジェライス州を代表する陶芸家として高い評価を受けており、敏子さんを慕ってこの農場の近隣にブラジル人の陶芸家たちが土地を購入して窯やアトリエを築くほどになりました。

 敏子さんは1911(明治44)年、丹後半島(京都府)で生まれました。

 「学校の点もよくなかったし、兄弟のなかでも落ちこぼれで。ブラジルに嫁に行くしかなかった」

 と本人は簡単に言います。
 花嫁探しのため、一時帰国した若きブラジル移民・石井延兼(のぶかね)青年との縁談が両家の間で進められました。

ブラジル南部パラナ州に入植した石井さん一家。1930年代末。
 20歳で結婚後まもなく、ブラジルに移住。神戸港に向かうまでの列車のなかで泣き尽されて、周囲から人さらいのように見られて往生した、と生前の延兼さんは私に語ってくれました。

 延兼さんは日系の農業組合の要職につき、敏子さんは来客や食客のお世話、そして5人の子供の育児に追われ続けます。

山と緑に囲まれた農場の母屋。我がドキュメンタリーの舞台。
 敏子さんの人生が俄然輝き始めたのは、山峡の農場に移ってからでしょう。軍政時代に娘が失踪してしまい、ショックから病を得た夫の転地保養も兼ねた山里暮らしでした。電気も電話もない生活の始まりです。

「闇にもいい色があるのよ。都会ではわからないけど」

 農場のなかから何種類もの粘土が見つかったことが、敏子さんを喜ばせます。

 私が農場に通い始めた時、敏子さんはすでに80代の後半でした。夫の延兼さんは新たに心臓を患い、歩くのも困難な状態でした。敏子さんは夫の介護に加えて、家族と農場の労働者の炊事を担当していました。あるかないかの、ほんのわずかな空き時間にアトリエに向かいます。

 当時、私には迷いがありました。より気の利いたドキュメンタリーを作りたい、という思いから日本のテレビ番組制作会社を辞してブラジルに移住して、10年近くが経っていました。志を通そうとすると収入は伴わず、しかもサンパウロでは、ブラジルで設けた家族の世話を仕事より優先しなければならないことがしばしばでした。外で働いて家計を支える妻の代わりに台所に立ちながら「いったい俺は何をしにブラジルに・・・」とぼやいていたのです。
 そんな思いを敏子さんにぶつけました。

「台所に立っておられる時間がほとんどですけど、その分、もっと陶芸に、なんて思いませんか?」
「食事を作るのは、みんなの健康と体を守る大事なことじゃないの。・・・それにね、お料理しながらも今度のデザインはああしようかな、なんて考えたりもしてるのよ」


個展会場の石井敏子作品から。
 これ以来、私の家事に対する心構えも変わりました。

 敏子さんが好むのは、釉薬を用いずに、焼き具合の偶然に賭ける備前焼です。

 「ブラジルの土では、なかなかいい色が出ないのよ。でもブラジルの土にも、きっといい色があるに違いないと思うの。私の望む色が出せるまで、100歳を過ぎても陶芸を続けたいわね」

 70年近く寄り添った夫を亡くして激しく落ち込んだ敏子さんですが、陶芸があるおかげで救われている、と言います。

農場にあるムゼオ(博物館)と呼ばれる一画。故・延兼さんのさまざまな収集品と敏子さんの作品が並ぶ。
 ダイナミックなアブストラクトを好むブラジル人の間でも、最近、敏子さんの「土くさい」作品の評価が高まり始めました。
「焼いてから何年も経ってから、いい色が出始めているのよ」

 改めて、アミーガであり人生の師でもある敏子さんにあやかって、そんなドキュメンタリーを作りたい、と願いました。

 敏子さんの末永いご活躍と共に。


◇◆◇筆者プロフィール◇◆◇

岡村淳(おかむら・じゅん)

1958年、東京生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒業。1982年、日本映像記録センター(牛山純一代表)入社。処女作は日本テレビ『すばらしい世界旅行』の「ナメクジの空中サーカス 廃屋に潜む大群」。以降、ゲテモノおよび中南米の取材を主に担当して、大アマゾンの裸族、ピラニア、ポロロッカ等々を扱う。
1987年、フリーとなり、ブラジルに移民。
フリーの番組ディレクターを経て、1991年、小型ビデオカメラを用いたひとり取材に開眼。ブラジルの社会・環境問題、移民の記録にこだわり、作品をNHK、東京MXテレビ、朝日ニュースターなどの日本のTVメディアで発表。近年は自主制作によるドキュメンタリー作りを続けている。
自主制作の代表作に「郷愁は夢のなかで」(1998年)、「ブラジルの土に生きて」(2000年)、「赤い大地の仲間たち フマニタス25年の歩み」(2002年)、5時間15分の長編「アマゾンの読経」(2004年)など。
作品の上映には制作責任者である岡村の立会いを原則として「ライブ上映会」と呼ばれ、「ひとりでもご覧になりたい方がいればおうかがいする」という方針で、これまで日本、ブラジル、台湾、アメリカ、チリ、アルゼンチン、オランダでライブ上映会を実施。

ブラジルに渡ったドキュメンタリー屋さん 岡村淳のオフレコ日記 にて、毎日更新中。

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